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第81話 キスまでの距離

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-09-08 06:00:51

 景都の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。

 私の手がジャケットの袖を掴む。引き止めたつもりはなかったのに、景都が止まった。

 景都は袖を見下ろした。「どうした。掴んでる」

 まだジャケットを渡していなかっただけだと答えたが、布はもう彼の手にある。景都はその矛盾を口にせず、私の指が離れるのを待った。

「いちいち見ないで。分かってるって」

 言いながらも、景都は近づかない。私が掴んでいる分だけ、玄関に残っている。

「さっき、顔が近くなった時……キスしようとした?」

 景都は数秒黙った。

「したかった」

 答えは短かった。景都の喉がわずかに動き、ジャケットを持つ手へ力が入る。平然として見えたのは、欲しくないからではなかった。

「前の私を知ってるから、言わなくても分かるんじゃないの」

 答えはすぐには返ってこなかった。

「知ってる。だから余計に分からない。昔の君なら、たぶん今、キスしてた」

 胸が跳ねた。言われた場所から順に、身体が
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  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第82話 帰ってほしくなかった

     洗った茶碗は二つ並んでいるのに、ソファには誰もいない。畳んだ毛布を抱えて押し入れまで行き、上段へ入れる前に手が止まった。来週使う予定があるわけでもない。だからこそ、今すぐ奥へしまう必要もない気がした。 結局、毛布はソファの背に掛けた。 昼前まで眠ろうと思ったが、八時には目が覚めた。洗濯機を回し、冷蔵庫の卵を数え、昨夜開けた水を飲む。することはいくらでもある。なのに玄関へ行くたび、最後に景都が立っていた位置を見てしまう。 帰ってと言ったのは私だ。 あのまま残られても困った。 それでも、帰ったあとに寂しいのは別だった。 昼過ぎ、灯から仕事のチャットが来た。来週の販促写真について、金具の反射をどこまで消すかという確認で、私は三分で返した。そのまま画面を閉じようとして、映画の広告が目に入る。前に景都が原作を読んだと言っていた作品だった。 チケットのページまで開き、一度閉じる。 昨日のことを何も話さず、次の予定だけ決めるのは逃げだろうか。逆に、昨日を全部整理してから会おうとする方が、景都の予定表みたいで嫌だった。◇ 夕方、買い物へ出た。塩、牛乳、卵。売り場で小袋の米を見て、粥はしばらくいいと思う。レジへ並んでいる間にスマートフォンを開いた。『来週の土曜、映画行かない? 昨日のことを話すためじゃなくて、普通に』 送ったあと、袋詰めをしながら何度も画面を見る。既読はつかない。仕事中だと分かっているのに、牛乳を冷蔵庫へ入れる頃には取り消したくなった。 十八時十三分、返信が来る。『行きたい。何時にする』 昨日の玄関には触れていない。『午後。まだ決めてない』『作品は』 タイトルを送ると、少しして『見たい』と返った。 私は冷蔵庫の扉を閉めたまま、画面を見る。 帰ってと言ったのは私なのに、景都はそれを拒絶されたとは受け取っていないらしい。次の約束をなくす理由にもしていない。それだけで十分だった。『じゃあ時間、あとで送る』 送信直後、もう一通届く。『土曜、空いてる』 午後の上映時間を調べる。十

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     景都の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。 私の手がジャケットの袖を掴む。引き止めたつもりはなかったのに、景都が止まった。 景都は袖を見下ろした。「どうした。掴んでる」 まだジャケットを渡していなかっただけだと答えたが、布はもう彼の手にある。景都はその矛盾を口にせず、私の指が離れるのを待った。「いちいち見ないで。分かってるって」 言いながらも、景都は近づかない。私が掴んでいる分だけ、玄関に残っている。「さっき、顔が近くなった時……キスしようとした?」 景都は数秒黙った。「したかった」 答えは短かった。景都の喉がわずかに動き、ジャケットを持つ手へ力が入る。平然として見えたのは、欲しくないからではなかった。「前の私を知ってるから、言わなくても分かるんじゃないの」 答えはすぐには返ってこなかった。「知ってる。だから余計に分からない。昔の君なら、たぶん今、キスしてた」 胸が跳ねた。言われた場所から順に、身体が熱を思い出す。「でも今やったら、また怒られる気がする」「怒るかもしれない」自分でも意地悪だと思った。「でも、何もしないのも腹立つ」景都が本気で困った顔をする。その顔を見たら笑いそうになって、余計に悔しかった。「景都」「何」 帰ってほしくない、と言えばよかったのかもしれない。でも、口にしたら今夜がこの先まで進みそうで、怖かった。「……今日は、帰って。さっきのこと、まだうまく嬉しいだけにできないから」 景都は一度だけ頷いた。「分かった。じゃあ帰る」 あっさり言われると、それはそれで胸が詰まった。帰ってと言ったのは私なのに、引き止める理由を探しそうになる。玄関には、昨夜の濡れた靴の跡が薄く残っていた。 景都がドアノブへ手をかける。「忘れ物――」 言いかけてやめた。財布も鍵も時計も、自分で確認する人だ。「何?」「何でもない」 今度は私が使った言葉に、景都の眉がわずかに上がった。

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     景都は一口食べ、塩の瓶を見たが、そのまま茶碗へ戻った。 私はもう一度、今度はさっきより多めに振った。景都は自分の茶碗を引き寄せる。「景都は足さないの?」「一回食べてから」 景都は塩の瓶を取った。二回。私より少ない。瓶をテーブルの真ん中へ戻し、もう一口食べる。私も食べる。同じ鍋からよそった粥なのに、途中から味が違った。 私は自分の茶碗を傾けて底の米をすくった。景都は私の塩加減を見ても口を出さず、自分の方だけをもう一度味見した。 景都の茶碗は、私のものより色が薄い。「本当にそれでいいの?」 彼は一口食べ、「別でいいだろ」と言った。昔は塩を足さなかったはずだと尋ねると、一人の時に試したらしい。「今さら?」「離婚してから」 短い答えの向こうに、私の知らない朝がいくつもあった。 私のいない台所で、景都が塩の瓶を取った朝を思い浮かべる。塩パンもブラックコーヒーもそうだった。知っていたはずの人に、私の知らない味が増えている。 景都の茶碗が先に空く。彼は鍋を洗おうと立ち上がり、私がまだ食べているのを見て座り直した。「音がするから、食べ終わってからでいい」 もう起きている、と返しても、彼は時計を見ずに待った。 六時半まで、もう数分しかない。電車は動いているし、昨夜濡れたジャケットも乾いている。それでも景都は時計を見直さなかった。私は最後の一口を急がずに食べる。 食べ終えると、景都が二つの茶碗を重ねた。私の分だけテーブルに残す。昨夜貼った絆創膏へ目をやって、流しへ持っていくのをやめたらしい。「絆創膏を貼ってても、茶碗くらい持てるよ」「知ってるよ。俺が立ったついでだから」 景都は自分の茶碗と鍋だけを洗う。蛇口の音の向こうで雨がほとんど聞こえなくなった。「次に作るなら、米粒をもう少し残して。煮すぎないで」 景都が水を止める。「次も作っていいのか」 言い直すこともできた。今日の粥の話だけだと言うことも。「次は、粥じゃないのがいい。食べたいもの、先に聞いて」 景都が玄関で靴を履い

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     扉を開けて、ソファでは狭いからこちらへ来るかと聞くこともできる。想像しただけで、また喉が渇いた。一時半を過ぎ、リビングの明かりが消える。扉の下から入っていた細い光もなくなった。それから何分経ったのか分からない。喉が渇き、ベッドを抜け出す。扉を開けると、部屋は暗かった。窓の外の街灯だけで、ソファの形が見える。景都は横向きになり、短い布団から足を出していた。 起こさないよう台所へ向かう。「水、飲みに来た?」 暗闇から声がした。「起きてたの?」「今、扉の音で起きた。何かいるか?」 景都が身体を起こしかける。「寝てて。自分で取る」「分かった」 すぐまた横になる。冷蔵庫から水を出すと、棚に夕食の残りのご飯が一膳分あった。明日の朝に食べようと思い、そのまま扉を閉める。グラスへ注いだ水を、立ったまま半分飲む。ソファからは景都の呼吸が聞こえない。眠っているのか確かめたくなり、暗さに目を慣らした。「朝、出る時……」 言いかけると、景都が目を開けた。「起こした方がいいのか?」 先回りされたことに腹が立つより、言えなかった自分の方が苦しかった。「……まだ分からない。やっぱりいい」「朝、出る時」の続きは、起こして、と言いたかったのだと思う。けれど口にする前に、急に恥ずかしくなった。水を飲み終え、空のグラスを流しへ置いた。 ソファの前を通る時、景都はもう目を閉じていた。眠ったふりかもしれない。私は名前を呼ばず寝室へ戻った。 米の匂いで目が覚めた。枕元の時計は六時十二分。外では雨が細く残り、部屋の中から鍋の蓋が鳴る音がした。台所へ行くと、景都が昨夜のご飯を小鍋で煮ていた。シャツには皺があり、袖を二度折っている。「断りなく台所使ったの?」 景都は木べらを止めた。昨夜のご飯が一膳分残っていたので、起こす前に作れると思ったらしい。「私が朝に食べようと思って残したの」 鍋の蓋から落ちた雫が、火の上で小さく鳴った。「……それなら、先に聞けばよかった」 鍋

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    「明日は六時半には出る。いったん家へ戻って着替えたい」「日曜なのに、そんなに早く?」「このシャツのまま一日過ごすのは、ちょっと落ち着かない」 この部屋に彼の服はない。さっきクローゼットを開けなかったのは、貸せる服がなかったからだけじゃない。景都の服が一枚もないことを、見たくなかったのかもしれない。スマートフォンの充電を確認し、景都はソファへ腰を下ろす。私も寝室へ行けばいいのに、テレビの消えた画面をしばらく見ていた。 寝室へ向かう前、照明をどうするかだけ聞いた。景都は私が寝てから消すつもりらしい。「自分のタイミングで消して」「そうする」 実務の確認はそれで終わったのに、私は扉へ手を掛けたまま動けなかった。 寝室の扉へ手をかける。閉めれば、元夫が壁一枚向こうで眠る。結婚していた頃は同じベッドに入っても、景都がいつ眠ったか知らない夜が多かった。今はソファの布が擦れるだけで気になる。扉を半分閉じたところで、振り返った。 洗面所へ戻ると、未開封だった歯ブラシの包装だけがゴミ箱にある。景都の財布、鍵、時計、充電器。朝になれば全部持って帰る物ばかりなのに、見慣れた部屋の輪郭が少し変わっていた。置いていく物はない。それでも、今夜ここにいた痕跡までは消さなくていいと思った。「景都」「どうした」 景都がソファから顔を上げた。呼んだ時には、続きがあると思っていた。泊まってくれてよかった。明日の朝、黙っていなくならないで。どれも口にすると、今夜へ意味を足しすぎる。「……何でもない。呼んだだけ」 景都は問い直さなかった。「明日、何時くらいに起きる?」「七時くらい。たぶん」 ソファの布が、景都の座り直す音を小さく立てた。「なら、起こさないように出る」「鍵は内側から閉めればいいから」「分かった」 実務の話だけを終え、私は扉を閉めた。ベッドへ入っても眠れなかった。エアコンの音に混じって、ソファの布が一度鳴る。景都が寝返りを打っただけだと思う。時計を見ると、まだ零時四十分だった。スマートフォンを開く。普段なら、帰宅した

  • 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――   第77話 元夫を、ソファに寝かせる

     困る。困らない。どちらもすぐには選べなかった。景都は返事を待ち、予約画面を進めない。私の部屋には寝具が一組しかない。それでも、彼が座っているソファなら、人一人が横になれる。「ソファでいいなら……泊まってもいいよ」 景都はホテルの予約画面を閉じる前に、一度こちらを見た。「本当に、泊まっていいのか?」 夫婦だった頃なら聞かなかった質問だった。「ソファだけ。寝室には入らないで」「分かった。寝室には入らないよ」 条件を増やして安心させようとはせず、予約ボタンから指を離した。 景都はソファの長さを見下ろした。私は、そこへ本当に寝るつもりなのかと聞く。「泊まっていいと言ったのは君だろ。嫌なら、今からでもホテルへ行く」 嫌ではない。ただ、彼の足が確実にはみ出す。その言い方を探していると、景都が先に口元を緩めた。「さっきから、君も嫌じゃないことしか言わないな」 景都はホテルの画面を閉じた。押入れの上段から薄い掛け布団を出す。来客用に買ったまま、一度しか使っていない。シーツの折り目が残り、柔軟剤の匂いもほとんどしなかった。景都が受け取ろうとする。「私が敷くよ。来客用の向き、分かりにくいから」「布団の向きくらい分かるよ」「私の家では、私が分かる方にさせて」 布団の端を引く方向がぶつかり、二人とも一度手を離した。結局、私が片側、景都が反対側を持ってソファへ掛ける。一人で寝るには少し短い。景都が横になれば、足首が肘掛けから出る。「足を少し曲げれば入る」 景都が実際に腰をずらして横幅を測り始めたので、私は布団の端を引いた。「今、試しに寝なくていいから」 寝られなければ私が気にする、と彼は真顔で言う。ホテルのベッドまで長さを確認するのかと尋ねると、写真の比率と寸法は見るらしい。 失敗したくない、という理由まで、いかにも景都だった。 本当に見る人だった。 掛け布団を置くと、肘掛けから景都の足首が出るのが目に見えた。「狭い?」 彼は一度ソファを押して確かめ、「寝られる

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